ニシタチ
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文化の香り高き庶民の町ニシタチ
昭和32年ごろのニンタチ界隈の写真
昭和32年ごろのニンタチ界隈(現在のたかさごビル付近)。当時は閑散とした通りだった。

ニシタチ発祥の地 赤煉瓦の写真
ニシタチ発祥の地 赤煉瓦

檀一雄と氏が書いた額の写真
ニシタチをこよなく愛した檀一雄(写真右)。現在の「五郎」の店内には、氏が書いた文字が額にして飾ってある(写真左)。

宮崎を代表する飲食街ニシタチの歴史は、昭和30年に旧国鉄の寮が払い下げられたときから始まった。跡地に、13坪のマスが40区画分。周りは空き地が目立つ閑散とした場所だった。

そこに県内最初のスタンドバー「赤煉瓦」ができたのが翌31年。隣にあった「センター」という映画館に、映画教室で中学生が授業の一貫として訪れる時代だった。そこから少し離れた、現在のダイヤモンドビルがある場所には、庭に小さな森を抱える地元の作家、中村地平の大邸宅があった。

今も昔も繁華街の主役である官庁の職員が、トリスのハイボールを飲み始めた時代。「赤煉瓦」の繁盛ぶりに誘われて、ちらほらと西橘通り界隈に飲み屋街が増え始める。昭和32年には、県庁周辺から立ち退きを命じられた多くの屋台が集まって、現在の中央通に2階建ての集合飲食店街「安兵衛小路」ができる。屋台の延長そのままの営業スタイルは宮崎の名物の一つとなり、連夜県内外のトラたちがのれんをくぐっていた。古い下宿屋のようなその建物に、現在も10店が軒を連ねている。

昭和52年には、銀座を模した柳並木も完成、現在のにぎわいに至っている。「出店してからニシタチがなんとかにぎやかになるまでに10年かかりました」。「赤煉瓦」の初代店主、中津清水さんは懐かしそうに当時を振り返る。

●多くの文化人が愛したニシタチ

県内最大の繁華街ニシタチは、また多くの文化人や芸能人が訪れる場所としても有名だ。

中でも最もあしげく通い詰めた文化人といえば、作家の壇一雄だろう。現在も中央通に店を構える「五郎」の常連だった壇氏は、玄人はだしの料理の腕をしばしば厨房でふるったという。十八番は、旬のたけのこ1本をくり抜いて醤油を詰め、またフタをして七輪で焼くという豪快な料理。宮崎駅近くには、壇氏からダシの取り方から教わったラーメン屋があるという。

他にもニシタチには、川端康成や志賀直哉をはじめ多くの作家・芸能人が訪れている。この地で初めて焼酎を飲んだという人が多く、南国にあって愛飲家を楽しませるニシタチは、都会からの貴客を楽しませてきた。寡黙といかめしい風貌で知られる川端康成が、とある店で女性スタッフの手を握って放さなかったという逸話も残っているほどだ。

また、宮崎と言えば巨人軍のキャンプ。今のようにマスコミや球団の目が厳しくなかった頃は、毎日のように選手がニシタチのクラブを訪れては豪快に遊んでいたという。今も春になると、夜のニシタチには巨人の選手の姿がみられる。時代を通じて、ニシタチのネオンは数多くの庶民・文化人・スポーツ選手たちの憩いの場であり続けたのだ。
(提供:鉱脈社)

中村地平と志賀直哉の写真
地元出身の作家中村地平と志賀直哉。場所は青島。

種田山頭人の残した句の写真
歌人の種田山頭人も、大正時代にニシタチに立ち寄って句を残した(現在のたかさごビル壁面)。

安兵衛小路の写真
近代的なビルにはさまれながらも、今に昔の面影を伝える安兵衛小路。

川端康成の写真
大淀川を舞台にした小説「たまゆら」を著した川端康成。